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   <title>雑学の雑学</title>
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   <updated>2012-02-07T00:01:24Z</updated>
   <subtitle>巷に溢れる雑学、鵜呑みにして恥かいてない！？</subtitle>
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   <title>こころの傷はからだに表れる　4</title>
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   <published>2012-02-06T04:09:16Z</published>
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      長年診ているうちに、胸骨の緊張がゆるむとき、からだといっしょに感情も解放されたと感じる患者かひじょうに多いことがわかってきました。


・・・そうなれば治療家が巻きこまれる心配はなくなるのです。


どうしても症状がとれないときも、ほかの医師に患者をまわすことはめったにありません。


たまにそうするときも、「その先生ならあなたの痛みをとってくれるだろう」といったたぐいの発言はしないことにしています。


・・・医師はそうした無責任な発言をすべきではありません。


治してもらうという受け身の姿勢になると、患者は治療家と対等に話せなくなり、自分を見つめることもしなくなるからです。


わたしにできるのはせいぜい


「全力をつくしたのですが、残念です。


わたしが見たところ、あなたはカウンセラーか、もしかしたら牧師と相談するといいかもしれない」


・・・ということだけです。


・・・とはいえ、せめて患者の感情生活にかんしてなにかアドバイスをしてあげたいと思うのが人情です。



      
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   <title>こころの傷はからだに表れる　3</title>
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   <published>2012-01-06T04:08:31Z</published>
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      大多数の人は胸骨に反射中枢があり、からだの奥に居座っている感情のパターンがそこに集まっていることが多いのです。


だから胸骨に手をふれて、なんの動きも感じなければ、まずまちがいなく、からだのどこかに感情の固若がある・・・


なんらかの深刻なこころの悩みが解決していないと考えていいのです。


わたしはいまも、そんな患者のひとりを診ています。


筋組織に炎症があってひどく痛み、筋痛と診断されている婦人です。


その婦人の問題も幼児期に経験した両親とのめんどうな関係にさかのぼります。


いまでも、なにかを決断しようとすると、何十年も前に父親と母親とのあいだに生じていた葛藤があたまのなかによみがえってくるといいます。


胸骨をさわれば、わたしにもそのときの緊張を感じとることができます。


わたしは患者の生い立ちを理解しようとするあまり、その人の感情生活に巻きこまれることのないようにこころがけてきました。


それが治療家の仕事だからです。



      
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   <title>こころの傷はからだに表れる　2</title>
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   <published>2011-12-06T04:07:44Z</published>
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      わたしたちの多くが幼児期に受けたこころの傷から立ち直っていないというのは、残念ながら事実です。


ダブルバインド(ニ重拘束)症候群のことを考えてほしいのです。


父親からノー、母親からイエスと同時にいわれるような、矛盾した状況がつづいたときに生じる徴候です。


自己形成期に世界との最初の関係をそういう状況下できずいていくと、自分にとって大切な人からのメッセージが明確に受けとれなくなります。


・・・たとえば、宿題をやっていて、ちょっと休憩したくなります。


パパは


「だめだ。遊ぶんなら宿題をすませてからだな」


・・・といいます。


ママは


「からだを動かして気分転換したほうがいいわよ」


・・・といって、遊びに行くことをすすめます。


こうした矛盾が長くつづくと感情生活が空疎なものになり、からだの生理作用を混乱させて、やがては痛みとなってあらわれてきます。


わたしは手でそれが感じとれるのです。


      
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   <title>こころの傷はからだに表れる</title>
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   <published>2011-11-06T04:06:25Z</published>
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      昨年たずねてきた、50歳代はじめの婦人の場合・・・


婦人はそれまでの20年間、ひどい背部痛と高熱に苦しんできました。


石は発見されていないが、胆石だろうというのが医師たちのとりあえずの診断でした。


・・・しかし、じっくりと話を聞いているうちに、婦人が父親との関係と姉との関係で悩みに悩んでいることがわかってきました。


わたしはその背部痛が家族関係のもつれからきているものだと確信しました。


感情的な苦痛はほとんどといっていいほどにからだの苦痛となって、あたまから足までのどこかにあらわれるものなのです。


わたしはその婦人に、感情的な悩みを解決すればからだの症状も消えるといいました。


しかし、婦人は信じようとしなかったのです。


そして現在も、一時的に痛みをとるためにわたしのところにきていますが、自分の感情と向きあうことは拒否しています。


だれかやなにかを責めるほうが楽だと感じているあいだは、からだの症状の原因がこころにあることを認めることはきわめてむずかしいのです。



      
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   <title>オイル・ショックとアメリカ　4</title>
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   <published>2011-10-31T01:49:43Z</published>
   <updated>2011-10-31T23:01:06Z</updated>
   
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      ニクソンにとって運の悪いことに、たまたまともに離婚で独身中だった2人のローカル記事担当のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインという若い記者が、ぶらぶらして社に居あわせていたのです。


ウッドワードのほうは、若者らしく生真面目で野心的、他方バーンスタインは社でも扱いかねる変わり者ですが、気が乗れば無類の能力を発揮します。


前者が事実を徹底的に追及しまくれば、後者はその事実を推理で組み立て、発展させました。


2人は性格がまったくちがっていましたが、むしろそれだからこそ、他社の誰も及ばない名コンビとなりました。


2人は直ちに事件を追ってみると、捕まった5人の1人でリーダー格のマッコードが、大統領再選委員会の警備主任だということがわかります。


さらに彼の手下の所持品から、ハワード・ハントという名が浮かんできます。


ハントはホワイトハウスの「鉛管工班」という組織の言貝で、犯人たちにカネを渡しています。


ここでまず、大統領再選委員会(CREEP)とは、ホワイトハウスの選挙対策を覆い隠すためのいわば&quot;隠れみの&quot;であり・・・


選挙運動でも、政治資金の使い道でも、実際は奥で糸をあやつっているのに、その責任はニクソンのところまで及ばないという仕組みになっていました。


      
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   <title>オイル・ショックとアメリカ　3</title>
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   <published>2011-09-11T01:49:11Z</published>
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      ウォーターゲートというのは、ワシントン市のポトマック河畔に面したところにある、事務所とアパートを兼ねた平凡なビルの名前でした。


1972年6月17日の夜、このビルにある民主党全国委員会の事務所に5人の怪しい男が忍びこんで、盗聴器を仕掛けました。


ところが、どじなことに5人とも捕まってしまったのです。


『メディアの権力』という本を書いたデビッド・ハルバースタムが述べているように、いくつかの偶然が重ならなければ、この犯罪は、歴史を揺るがす大事件にはならなかったにちがいありません。


その偶然とは、第一にこの事件が起きたのが土曜の夜で、『ポスト』社には全国ニュース担当の大物の政治記者が、いずれも非番でいなかったということです。


平日だったら、彼らは全国的なニュースをほかに受け持っていたから、こんなローカルなニュースは取り上げてもあっさりと片づけられてしまったでしょう。


      
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   <title>オイル・ショックとアメリカ　2</title>
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   <published>2011-08-31T01:48:31Z</published>
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      ウォーターゲートの黒い影もともとニクソン大統領は、ケネディのような若さ、明るさといった人を惹きつける魅力に欠けています。


表面は実直そうにみえますが、どこか暗い影が漂っています。


この点をたくみについたのが、著名な政治漫画家ハーブロックです。


1960年の大統領選挙のとき、すでに彼はニクソンが暗い表情の上に、ひげをきれいにそった明るい表情の仮面をかぶっている漫画を描きました。


ニクソン自身、ハーブロックを最も憎み、その漫画を載せる『ワシントン・ポスト』紙をことのほかきらっています。


『ポスト』として知られる同紙は、ワシントンの地元紙であると同時に、『ニューヨーク・タイムズ』とならぶ全国紙として、アメリカでは最も権威ある新聞のひとつです。


大統領の任期中に破廉恥な事件でニクソンを史上前例のない辞職に追いこむことになったのも、地元の『ポスト』の・・・


それもローカル記事担当の名もない若い2人の記者であったのは皮肉です。



      
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   <title>オイル・ショックとアメリカ</title>
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   <published>2011-07-31T01:47:43Z</published>
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      イギリスの『フィナンシャル・タイムズ』紙恒例の1971年度「オスカー」賞には、


「みずからのフレトンウッズ体制を破壊しながら、その尻拭いを他国に強制した」


・・・として、アメリカに「鉄面皮最高賞」が与えられました。


日本とはちがってアメリカの仕打ちに対してがまんをしなかったのが、その支配下にあった石油産出国でした。


ドル収入に頼っていた彼らは、その切り下げで収入を大幅に減らされ、その仕返しに、石油価格を4倍に引き上げました。


いわゆる「第一次オイル・ショック」です。


しかし、これで最も被害を受けたのは、日本やヨーロッパなどの石油の大量輸入消費国でした。


これに対しセブン・シスターズといわれる米英石油メジャーは、国際カルテルの主導権こそ奪われましたが、価格引き上げに便乗することができたのです。


・・・とはいえ、こうしたオイル・ショックにまったくの無防備をさらけ出したアメリカの打撃は深刻でした。



      
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   <title>抵抗の「元気」</title>
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   <published>2011-06-27T06:51:13Z</published>
   <updated>2011-06-30T23:01:03Z</updated>
   
   <summary>自治行政の展開のなかで、「住民」が無視できない政治力として登場したのは「住民運動...</summary>
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      自治行政の展開のなかで、「住民」が無視できない政治力として登場したのは「住民運動」としてでした。


今日では旧聞に属しますが、「住民運動」に関する記事が新聞の全国紙の第一面にまで登場するようになり、住民運動という言葉が通用しはじめたのは、ほぼ昭和40年前後でした。


特定の言葉の流通は、それが表している事態や現象が広く人びとの注目を集め関心を引きはじめることを意味しています。


ジャーナリズムにおける言葉の流通が時に特定事象の誇張されたイメージの伝達となることがあるにしても・・・


広く人びとの関心ないし共鳴をよぶものと考えられないかぎり、そうした流通化への動機は起こらないでしょう。


そして、人びとの関心ないし共鳴は特定事象への共通の問題意識ないし課題意識の発生を告げているのです。


昭和40年前後までは「市民」運動という言葉が広く用いられていました。


しかしこれに代り、あるいはこれと併用されて「住民」運動という言葉が多用されるようになったことは、「市民」とは区別される「住民」という新しい運動主体の登場を示していました。


善き政治主体の証しとしての「市民」には、自他の利害の合理的計算、利害関心における「私性」の克服、行動における教科書的な行儀のよさなど、総じて存在基盤におけるあやふやさが常につきまとっています。



      
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   <title>消極的な「住民」の規定　3</title>
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   <published>2011-05-27T06:49:34Z</published>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://usccatholic.com/">
      原理としての自治を考えると、そこで担い手として前提されるのは「主体」としての個人です。


なぜなら団体自治とは、端的にいって、独立の人びとの間に相互の自由な合意によって秩序(共存関係)を創出する活動であるということができるからです。


そして、そのような自治を実現する具体的な場として地方自治を捉えるならば、普通の住民が自らこの自治の担い手となりえてはじめて、それを権利として主張する根拠をもつことができるのです。


・・・・おそらく問題の核心は、今日の地方自治がたんに地方という地域的独自性のゆえに中央政府から尊重されるべきであるという公式をもち出すことではありません。


また、地方自治の原理が憲法に規定されているがゆえに尊重されるべきであると反復強調することでもないでしょう。


その住民ひとりひとりがあくまでも自分の生活利害から出発しながら、自治の主体としての条件を獲得し、利己と狭域をこえ出て他の人びとと共存の関係を形成しうるかどうかということなのです。


・・・そのような主体形成の住民エネルギーを、いま住民の「元気」とよぶことができます。


しかし、実は住民の元気はさまざまであり、そうした「元気」の類型と特性を描出することを通して、現在日本の社会における住民自治の可能性をさぐってみることにしましょう。


「元気」というのは、もともと、霊力が振い立つさま、霊振りの意で、気力・体力が充実して、その勢いが目立って外に現れることをいいます。



      
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   <title>消極的な「住民」の規定　2</title>
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   <published>2011-04-27T06:48:44Z</published>
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      住民の選挙権を規定した条項は、第一に住民を日本国民に限定し、第二に「選挙に参与する権利」を認めているものです。


第一点は、住民である外国人を権利主体から排除し、第二点は、選挙権はあくまでも「参与権」であることを意味しています。


これらの条文の表現には、どこか、住民に権利などを認めたくないのですが、やむをえず権利を与えようという発想がかくされているように思えます。


「住民」に関する規定をみるかぎり、現行地方自治法は、その精神において、自治を主体的に担う住民を想定していないのではないかという疑問をぬぐいきれないのです。


そこには、根強い、後見主義的な、あるいは啓蒙主義的な権利賦与の思想が暗示されているとみるのは懐疑的であり過ぎるでしょうか。


嫡請求権、事務の監査請求権、議会の解散請求権、解職請求権は、住民主権の実現をうらづける基本的知な制度的保障であるからです。


問題は、これらの政治的諸権利がいかに効果的に行使されるかということです。


      
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   <title>消極的な「住民」の規定</title>
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   <published>2011-03-27T06:47:24Z</published>
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      地方自治法には書かれていないのですが、その都道府県を包合して日本全体が成り立ちそこに国民が出てくるというわけです。


この包摂型の住民概念は、市町村の住民を国民自治の基礎においているようにみえますが・・・


その実は、ちょうど日本で住所表記の書き方が、例えば○○県○○市○○(町)○○丁目○○番地というふうに広域から狭域へ下降する様式をとっています。


英米のように狭域から広域へ上昇する様式をとっていないように、必ずしも市区町村民を自治の出発点においていないといってよいでしょう。


同じ一人の日本人は市区町村民であり、都道府県民であり、しかも日本国民ですが、そのあり方は積み上げ型の重層的な自治構造となっているのではなく、むしろ下降型の分割管理の構造となっています。


第13条の二にあるように市町村は住民たる地位に関する記録をつねに整備し、戸籍事務と連動させて国民管理の基礎情報を入手・保管しなければならないのです。


もう一つ、第10条第二項から分かるように、住民を自治行政の権利義務の主体としていますが、地方公共団体がまずあって、住民がもつ権利はその地方公共団体が提供する役務を受ける権利であり、負担は、その地方公共団体が課する義務の分担なのです。


・・・ここでの考え方は、あくまでも既存の行政が所与であって、それを自ら形成ないし再形成する主体としての住民のイメージは少なくとも明示的ではないといってよいでしょう。


この消極的な住民観は、次の第11条にもみることができます。


      
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   <title>家庭教育について　9</title>
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   <published>2011-02-03T05:32:53Z</published>
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      わざとらしい親子の対話とか、肌のふれあいなど必要ないと私は考えます。


もし親が自然の愛情を子どもに持っているならば、この前提が大切なのです。


むりにあらわす愛情のしぐさ、不自然な親子の関係こそ問題でしょう。


親がひとりひとり個性を持っているので、親子関係のあり方は、またひとりひとり異なっていて良いはずです。


何かきまった外見的な親子の行動のパターンがあると考え、またそれを育児書などに探そうととする姿勢こそ不自然でしょう。


いつまでもおとなになれない親、子どもを持っても自ら乳離れのできない母親など、情緒的に未成熟な親であるならば、子どもに対してゆとりのあるおとならしい愛情を持ちにくいものです。


      
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   <title>家庭教育について　8</title>
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      またある年齢で急に何かのきっかけで、猛然とファイトを出してくる子ども。


しかも周囲の指導にはいっこうにおかまいなしで自分のペースで悠然と時のくるのを待っている子どもがいます。


すなわち、ひと言でいうならおとなの意のままにならないのは、この「意欲」についても当てはまります。


結局、どうにもならないとわかったときに、おとなとしてのよりどころはどこに求めるべきなのでしょうか。


よく「男はうしろ姿で勝負する」と言います。


現代の都市生活では男親がその真剣な生き方を子どもに示す機会は少ないものです。


意識的に子どもとの対話を心がけるのも良いでしょう。


また幼いとぎの親子のスキンシップも大切です。


しかしこのようなことはことさらに意識してやるべきことなのでしょうか。


      
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   <title>家庭教育について　7</title>
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   <summary>もちろんこれらの体質そのものが、習慣や訓練である程度まで改良することも可能なので...</summary>
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      <![CDATA[もちろんこれらの体質そのものが、習慣や訓練である程度まで改良することも可能なので、ただしかたがないというわけでは決してありません。


それにしても、その生まれ持った体質的特徴は尊重せねばなりませんし、その限界のなかで訓練せねばなりません。


そこで、第3に、意欲のかん養すなわち根性を養うことはどうでしょうか。


一時、根性論がはやったことがあります。


やる気がいちばん大切であり、それは考え方次第で、訓練のしかた次第でどうにもなるというのです。


たしかに、そういうことはある程度まで言えるでしょう。。<a style="color:#383838; text-decoration:none; font-weight:normal;" href="http://blog.goo-net.com/taiyoko/" target="_blank">石塚孝一</a>氏によると、教育の目標もやる気をおこさせれば、それは、半ば達成されたわけでしょう。


しかし、個性はいろいろあります。


ゆっくりと始めて、ある年齢で加速する子ども、はじめはエネルギーがあるけれども、中途で速度がゆるめられていっこうにばっとしない子ども。
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