消極的な「住民」の規定 2

住民の選挙権を規定した条項は、第一に住民を日本国民に限定し、第二に「選挙に参与する権利」を認めているものです。


第一点は、住民である外国人を権利主体から排除し、第二点は、選挙権はあくまでも「参与権」であることを意味しています。


これらの条文の表現には、どこか、住民に権利などを認めたくないのですが、やむをえず権利を与えようという発想がかくされているように思えます。


「住民」に関する規定をみるかぎり、現行地方自治法は、その精神において、自治を主体的に担う住民を想定していないのではないかという疑問をぬぐいきれないのです。


そこには、根強い、後見主義的な、あるいは啓蒙主義的な権利賦与の思想が暗示されているとみるのは懐疑的であり過ぎるでしょうか。


嫡請求権、事務の監査請求権、議会の解散請求権、解職請求権は、住民主権の実現をうらづける基本的知な制度的保障であるからです。


問題は、これらの政治的諸権利がいかに効果的に行使されるかということです。

消極的な「住民」の規定

地方自治法には書かれていないのですが、その都道府県を包合して日本全体が成り立ちそこに国民が出てくるというわけです。


この包摂型の住民概念は、市町村の住民を国民自治の基礎においているようにみえますが・・・


その実は、ちょうど日本で住所表記の書き方が、例えば○○県○○市○○(町)○○丁目○○番地というふうに広域から狭域へ下降する様式をとっています。


英米のように狭域から広域へ上昇する様式をとっていないように、必ずしも市区町村民を自治の出発点においていないといってよいでしょう。


同じ一人の日本人は市区町村民であり、都道府県民であり、しかも日本国民ですが、そのあり方は積み上げ型の重層的な自治構造となっているのではなく、むしろ下降型の分割管理の構造となっています。


第13条の二にあるように市町村は住民たる地位に関する記録をつねに整備し、戸籍事務と連動させて国民管理の基礎情報を入手・保管しなければならないのです。


もう一つ、第10条第二項から分かるように、住民を自治行政の権利義務の主体としていますが、地方公共団体がまずあって、住民がもつ権利はその地方公共団体が提供する役務を受ける権利であり、負担は、その地方公共団体が課する義務の分担なのです。


・・・ここでの考え方は、あくまでも既存の行政が所与であって、それを自ら形成ないし再形成する主体としての住民のイメージは少なくとも明示的ではないといってよいでしょう。


この消極的な住民観は、次の第11条にもみることができます。

家庭教育について 9

わざとらしい親子の対話とか、肌のふれあいなど必要ないと私は考えます。


もし親が自然の愛情を子どもに持っているならば、この前提が大切なのです。


むりにあらわす愛情のしぐさ、不自然な親子の関係こそ問題でしょう。


親がひとりひとり個性を持っているので、親子関係のあり方は、またひとりひとり異なっていて良いはずです。


何かきまった外見的な親子の行動のパターンがあると考え、またそれを育児書などに探そうととする姿勢こそ不自然でしょう。


いつまでもおとなになれない親、子どもを持っても自ら乳離れのできない母親など、情緒的に未成熟な親であるならば、子どもに対してゆとりのあるおとならしい愛情を持ちにくいものです。

家庭教育について 8

またある年齢で急に何かのきっかけで、猛然とファイトを出してくる子ども。


しかも周囲の指導にはいっこうにおかまいなしで自分のペースで悠然と時のくるのを待っている子どもがいます。


すなわち、ひと言でいうならおとなの意のままにならないのは、この「意欲」についても当てはまります。


結局、どうにもならないとわかったときに、おとなとしてのよりどころはどこに求めるべきなのでしょうか。


よく「男はうしろ姿で勝負する」と言います。


現代の都市生活では男親がその真剣な生き方を子どもに示す機会は少ないものです。


意識的に子どもとの対話を心がけるのも良いでしょう。


また幼いとぎの親子のスキンシップも大切です。


しかしこのようなことはことさらに意識してやるべきことなのでしょうか。

家庭教育について 7

もちろんこれらの体質そのものが、習慣や訓練である程度まで改良することも可能なので、ただしかたがないというわけでは決してありません。


それにしても、その生まれ持った体質的特徴は尊重せねばなりませんし、その限界のなかで訓練せねばなりません。


そこで、第3に、意欲のかん養すなわち根性を養うことはどうでしょうか。


一時、根性論がはやったことがあります。


やる気がいちばん大切であり、それは考え方次第で、訓練のしかた次第でどうにもなるというのです。


たしかに、そういうことはある程度まで言えるでしょう。。石塚孝一氏によると、教育の目標もやる気をおこさせれば、それは、半ば達成されたわけでしょう。


しかし、個性はいろいろあります。


ゆっくりと始めて、ある年齢で加速する子ども、はじめはエネルギーがあるけれども、中途で速度がゆるめられていっこうにばっとしない子ども。

家庭教育について 6

競争社会をそのまま若い夫婦のアパート生活のなかにもちこんで、子どもにかける幻想を増幅させている点も否めません。


もっとも、このような点の反省から子どもの個性をみつめる無理のない教育という配慮をしている若い親も多くなってはいましょう。

しかしそれでもあせるというのが現実です。


しかもこれが実現不可能に近いことを知るなら親は次に何を願うのでしょうか。


すなわち身体的健康です。


丈夫で長持ちする身体さえこしらえられるなら、少々頭は悪くても、というわけです。


ところが、このことも実はいつでも実現可能というわけでないのはみなさんがご承知だと思います。


生来の体質傾向というものは、どうしようもない面もあります。


虚弱体質、アレルギー体質、自律神経失調体質などは親から受け継いだものでもあります。

家庭教育について 5

現在、相談機関と言われているもののなかには、世間的に有名なひとがいるからというだけで長く通っている、いわば不必要にクリニック通いをしている親も多いようです。


さてそこで、最後に家庭教育のポイントについて話を移しましょう。


親が子どもを育てるときの願いには、大きく分けて次の3つがあると思います。


すなわち、能力、健康、意欲です。


まず能力育成でしょう。


ことに現代のようにコンピューター時代になると、数学や機械の知識が職場で必要だと痛感している親は、なんとか子どもには自分の弱いところで将来損をすることがないように、とかピアノがどの家庭にもある時代では、幼児からの音感教育ということになります。


たしかに幼いときからでぎるだけ教育的環境をととのえることは、その子どもが持っているかもしれない潜在能力をひき出すことにもなりませしょう。


しかし、これが少々行きすぎているのではないでしょうか。

家庭教育について 4

すべてがこのような完備した施設で行わねばならないものでもないし、ときによると鶏頭を切るのに牛刀をもってするというようなことをしないでも、多少の配慮で問題行動がおのずから解決することも多いのです。


私がかつてクリニックで働いていたときに、未来所者の調査をしたことがあります。


すなわちクリニックに申し込んで予約をして、実際に子どもを見るまでに数ヵ月たつことがあります。


そこでその間に申し込みはしたのにクリニックに来なかったひとに数年後に問い合わせをするわけです。


するとその多くのものは、はじめて申し込みをしたときの問題行動は消失して、枷しまっているのです。


すなわちこれは時が問題を解決したいわゆる発達過程の問題だったおけです。


長い間、専門治療施設に通っていた子どもが学校で1年教育している間に、今までの問題が消失することもありましょう。


もちろんこれがすべてクリニックの治療を必要としなかったと言うの箪計かもしれないので、子どもが自らなおるための下ごしらえをしていたのかもしれません。

つくられた消費者ニーズ

こんにちは。


今回はごみやリサイクル問題について。


さて、企業責任のあり方を抜きにして、ごみ処理量の増大で増える処理費のツケを自分のところにまわされては困るという意見が一般的です。


ただし、ごみ問題、環境問題に対する消費者サイドの責任はどうでもよいということには、もちろんならないでしょう。


これに関連してある調査結果を見てみましょう。


Q.最近、一部の企業では、環境に悪い影響を与えない製品の開発・販売に力を入れていますが、あなたはそのような製品を買うようにしていますか?


いつも買うようにしている・・・11.3%

時々買うようにしている・・・33.4%

買わない・・・16.2%

そのような製品を知らない・・・34.5%

答えない・・・4.6%


・・・こうして消費者サイドでは、環境保護型、リサイクル型の製品や容器を選んでいる人が多く、さらにこの数は、こうした製品や容器についてのPRが効果を発揮するに伴って増えていくに違いないでしょう。


実際、わたしのまわりにはリサイクルトナーなどのエコ商品を利用する人が増えています。


それにもかかわらず、企業は使い捨ての製品・容器に対する消費者ニーズを強調します。


しかし、それは真の消費者ニーズではなく、企業によってつくられた消費者ニーズなのです。


家庭教育について 3

さらに、学校、クリニック、との相互連絡も緊密にとれていなければならないし、ときには緊急の暴力事件の発生に備えたそれなりの連絡網さらに、医療施設との連絡なども必要です。


このようないわば研究施設を備えて、児童相談をすることはもちろん望ましいごとです。


私もかつて、6~7名の専門スタッフをそなえたクリニックで仕事をしたこともあります。


しかしそれでもなお、そこでできることには限度があります。


ひとつひとつ入りくんだ世の中の生ぎた症例に十分に対応するためには普通に考えられる以上のきめこまかな配慮と、ぜいたくとも言える人的、物的準備が必要なのです。


学校拒否、自閉症だけでなく、多動、認知障害、行動異常、言語障害、情緒障害など無数の問題行動を、すべてこのようなととのった施設で処理することはどだい無理なのです。